Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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*NBIC(:Nano-technology,Bio-technology,Information-technology,Cognitive science)融合と《我々=人間》の欲望との出会い――「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」の方法論的探究概念としての<生体工学的介入>の分析論に向けて 2007/12/25-

はじめに
本論は、<生体工学的介入>という仮説的概念を定義した上で、この概念を焦点化する分析テーマを考察しながら、「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」の方法論的探究概念として、この<生体工学的介入>概念が位置付けられる文脈の分析を試みる。ここで「メタ生命倫理学」とは、下記に定義する<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開の文脈生成過程の分析論を意味する。また、「メタ生命倫理学」は、<私たち>/《我々=人間》の欲望という文脈生成を媒介するレベルを焦点化した<記述行為=言説実践>の分析論であり、その理論的射程において任意の「テクノロジーによる介入」の分析論のモデルとして構築される。[注1]
本論は、生殖細胞系列をその端緒とする形で規定された<人間の身体>――この意味における<人間の身体>には、生殖細胞系列・個々の体細胞・胎児及び出生後の生体が含まれる――に対する<生体工学的介入>という操作 [注2] を焦点化する。ここでの<人間の身体>領域は、技術的介入の多様な実践及びその展開がそこへと位置づけられる文脈生成過程の変容に伴って、絶えずそれ自身と<非-人間の身体non-human body>領域との境界領域が識別不可能な領域を内包しながら変容するという性格を持っている。ここで、<生体工学的介入>とは、上述の意味での<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開(NBIC:Nano-technology,Bio-technology,Information-technology,Cognitive scienceの各様態における技術的介入が複合・融合・収束した諸様態における技術的介入)として定義される。⇒ここに[注3]を新たに付加する
以下において、この<生体工学的介入>に関わるいくつかのテーマを論じる。
テーマ1.<生体政治工学的介入>と予測可能性のデッドライン
1―[1].「欲望(desire)」の弁証法から「欲動(drive)」の生成へ
まず、上記テーマの含意は、次のように分析することができる。
:<生体工学的介入>が、その現実的な遂行に関して、何らかの法的システムの制御下
にある場合に、この<生体工学的介入>という操作の遂行可能性が法的に予防または治療上の目的に限定されていたとしても、あるいはむしろ、法的に予防または治療上の目的以外の目的が禁止または排除されているからこそ、現実の操作主体の意思決定=選択行為において、その目的からの逸脱が現実に生じてしまうという可能性をゼロにはできない。
ここでは、<生体工学的介入>が、何らかの法的システムによって予防または治療上の目的に限定されているという事態が想定されている。その上で、こうした法的レベルにおける予防または治療上の目的以外の目的の「禁止」または「排除」という事態が、それら法的システムの現実的な状況下における運用上、むしろそういった目的を逸脱する何らかの予測不可能な事態を現実に誘発してしまう――あるいはそういった予測不可能な事態が生成する可能性を(すなわち任意の操作主体の逸脱的行為への無意識の欲望を)むしろ強化する――という事態が想定されている。このテーマは、「予防または治療」をサブカテゴリーとして含むものとして構想された「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強:Enhancement」という問題系に接続できる。⇒ここに[注4]を新たに付加する
ここでは、無意識の欲望の生成過程の文脈として、予防または治療上の目的に限定されているという様式で記述可能な象徴的枠組みが前提されている。もしこの象徴的枠組みの不在が露呈するなら――予防または治療上の目的(=A)以外の非限定無限(判断)領域(=non A) [注5] が予測不可能な事態の生成フィールドとして焦点化されるなら――ここでの「欲望(desire)」は、象徴的枠組みに亀裂を穿ち究極的にはそれを空無化する力(以下この力を「欲動(drive)」と呼ぶ)の生成という事態へと移行することになる。
「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強」という問題系は、この象徴的枠組みを空無化する可能性を持っている。ここで、「人間(社会)の能力・性能の増強」と「欲動」の生成という事態との関係性をテーマ化することができる。⇒ここに[注6]を新たに付加する
1―[2]. 接近(記述)不可能な<現実=全体>と<規則のシステム=全体>の不可能性
ここで、現実の操作主体の意思決定=選択行為自体を制御する何らかの基準あるいは根拠を問うならば、無限背進に陥ることになる。また逆に、予測可能な事態しか帰結し得ないような操作であれば正当化され得るという論理、あるいは、想定される任意の事態に関して予測可能性がそれによって判定される何らかの基準が存在するような操作であれば正当化されるという論理は、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進において解体する。
さらに、ここで予測の対象として、「単なる予測不可能な事態」と区別された「現実的な効果をもたらす事故accident」を想定した上で、現実的な状況下における予測可能性の基準――確率的な事故予測に基づく何らかの「運用規則(防御的事故対処操作のアルゴリズム:計算プログラム)」という<現実性のフレームワーク>(及びその内部に位置づけ可能な「突発的事故」)――を構想しようとしても同様の結果に陥る。言い換えれば、任意の「失敗」あるいは「突発的事故」に対して、「安全弁(となり得る防御操作)」が確立されているという論理(いわゆる「フェイルセーフfail safe」)だが、<生体工学的介入>に関して現実的な効果をもたらす「突発的事故」の固有領域を確定することは、単なる想定の内部にとどまることになる。
ここで「運用規則」という<現実性のフレームワーク>と呼ばれているものは、この規則を構成する可能的選択肢(防御的事故対処操作のアルゴリズムにおける任意のユニット)として想定される意思決定=選択行為が、<現実的事象>としては同定不可能な不確定状態にとどまり続ける――言い換えれば、それら可能的意思決定=選択行為の仮想的な総体が、象徴的枠組みにとって記述不可能な<現実=全体>を構成する――という原理的規定を有する。従って、この「運用規則」自体は、原理的に<現実性のフレームワーク>とはなり得ない。
すなわち、<現実性のフレームワーク>として措定された任意の「運用規則」は、<現実性のフレームワーク>として何らかの<規則のシステム=全体>であろうとする限り、すなわち<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする限り、不可避的に自壊する他ない(あるいはつねにすでに自壊している)。まさにそのことによって、この「運用規則」は、<現実性のフレームワーク>としては不可避的に没落する。さらに、同様の理由により、ここで述べられている任意の「失敗」あるいは「突発的事故」に対して、「安全弁(となり得る防御操作)」が確立されているという先の論理は、その論理の適用対象としての記述可能な<現実=全体>を原理的に持ち得ない。言い換えれば、任意の<現実的事象>の制御能力を有する<現実性のフレームワーク>あるいは<規則のシステム=全体>は存在しない。
単なる想定の内部においては、「単なる予測不可能な事態」は「現実的な効果をもたらす事故」と原理的に弁別不可能であり、この「現実的な効果をもたらす事故」に関しても、さらなる判定(予測可能性の保証)の基準への無限背進が生じる。従って、<生体工学的介入>という操作に関して、想定される任意の事態(帰結)の予測可能性を保証する基準あるいは根拠は存在し得ない。
1―[3]. <非-人間の身体non-human body>領域の生成フィールドとしての非限定無限(判断)領域
ここで、必ずしも現実の操作主体ではない個々人の意思決定=選択行為に対して、そこに恣意的な<生体工学的介入>の歯止め(禁止または排除)となる明確な基準が存在しなければ、例えば「ささいな事で出産しない(遺伝子診断や遺伝子検査の結果を参照して出生予防を行う)親が増加してしまうのではないか」といった危惧が考えられる。
だが、もし「明確な基準」が何らかの歯止め――禁止または排除としての制限=実効的な限界領域の設定として――あるいはそのような機能を持つ何らかの法的なメカニズムと考えられているのなら、やはりこの基準は個々人の意思決定=選択行為にとって外部から「与えられる何か」として想定されている。
ここでの禁止または排除としての制限、すなわち実効的な、通常の法的機能を有する限界領域の設定とは、法的レベルそれ自体の措定及びその維持――同時に象徴的枠組みにおける任意の文脈の設定行為――として、ベンヤミンの『暴力批判論』によるなら[注7]、「法措定的暴力」または「神話的暴力」と呼ぶことができる。この創設的レベルは、任意の<私たち>にとって、つねにすでに何らかの法制度的なメカニズムとして実体化されて現象している。すなわち、それは個々人の意思決定=選択行為にとって外部から「与えられる何か」として現象する。しかし、既述の様に、例えば「予防または治療上の目的」といった一定の制限=実効的な限界領域の設定行為は、禁止または排除の<規則のシステム=全体>の構成という「目的」達成に不可避的に失敗する。この象徴化の「失敗」――<規則のシステム=全体>の自壊――は象徴化行為と同時につねにすでに生成している。言い換えれば、この「目的(=A)」が不可避的に自らの不可能性を内包している以上、この「目的(=A)」以外の非限定無限(判断)領域(=non A)が、<人間の身体>領域との間の識別不可能な領域を内包する非限定無限(判断)領域(=non A) としての<非-人間の身体>領域の生成フィールドとして露呈することになる。
1―[4]. 《我々=人間》と《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》の出会い
ところで、<非-人間の身体>領域において生成する「(任意の)他者」は、その他者を操作・決定の対象とする任意の<人間>すなわち<私たち>にとって、ドゥルーズ/ガタリが『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」[注8] で<人間の身体>の超越論的構成条件――「黒い穴」と「白い壁」を組み合わせて「動物の頭部」を人間の<顔>へと構成する抽象機械――として論じた「顔性」を持たないものとして現象する。すなわち、この「(任意の)他者」は、「顔性」をマトリクスとした他者性の圏域に位置付けることができない「見知らぬ何か」として現象する。言い換えれば、<私たち>――《我々=人間》――にとって、この「(任意の)他者」は、<人間の身体>領域ではなく、むしろ非限定無限(判断)領域(=non A)としての<非-人間の身体>領域において「顔性」の発動を予め不断に挫折させる《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》であり続ける。この《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》は、それを操作・決定の対象とする(はずの)<私たち>/《我々=人間》の<人間の身体>領域への帰属の根拠を不可逆的に抹消し、その<人間の身体>領域の<非-人間の身体>領域への移行という事態を生成させる。
テーマ2. 意思決定=選択行為と「価値観」の同時生成過程
2―[1].「自らの価値観」から「個人の価値観」へ
次に、<生体工学的介入>に関わる個人の意思決定=選択行為を、その個人の「価値観」との関わりにおいて考察してみたい。例えば、中絶という経験または意思決定=選択行為が、その個人(またはカップル)にとって初めて遭遇するものだとする。この場合、意思決定=選択行為を導く「個人の価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、「個人の価値観」が何らかの様態において生成したと記述することができる。言い換えれば、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程を個人が記述可能なものとして再帰的に捉えたときに、その個人にとって「自らの価値観」が同時に生成する。このとき、記述可能なものとして捉えられた個人の意思決定=選択行為は、同時にこの個人の固有な「価値観」を表現する意思決定=選択行為として記述できる。
次に、例えば「遺伝子診断の結果、今後子どもが生まれてくる場合治療不可能な遺伝子疾患がかなり高い確率で発症するという予測が提示されたので中絶をした」と記述された特定の個人の経験を、その個人の価値観を表現する意思決定=選択行為として記述する。このとき、こうした現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>にとって生成する記述行為の枠組み(framework)を考えることができる。この<私たち>にとっての記述行為の枠組みが、単に一般的なものとして記述された「個人の価値観」である。それは例えば、「治療不可能な遺伝子疾患を持った子どもを実際に産んだ後のあらゆる意味での苦悩を考えれば、誰であれ一概に中絶を否定することはできない」といった記述が表現するその記述自身の枠組みである。[注9]
この意味での「個人の価値観」は、先に見た「自らの価値観」とは厳密に異なる。この意味での「個人の価値観」とは、<私たち>がごくありふれたものとして耳にし、あるいは口にする「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という記述(または発話)において登場する「個人の(個々人の)価値観」である。この「個々人がどのような価値観を持とうと、<私たち>はその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論理は、「個々人がどのような意思決定=選択行為――いわゆる自己決定――を行おうとも、<私たち>はその個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」という論理――いわゆる「自己決定権」を正当化する価値相対主義的論理――と同じ象徴的枠組みのレベルを占めている。
2―[2]. <私たち>/《我々=人間》の欲望の不可避的な自壊
先に定義した「個人の価値観」とは、任意の個人=記述主体が、<私たち>/《我々=人間》という記述行為一般の空虚な主体の位置を占める場合に、その記述行為の主体、すなわち<私たち>/《我々=人間》によって遂行される記述行為が取る枠組みを意味する。その事例が、「誰であれ一概に(…)を否定することはできない」である。また、その内容が充当された事例が、「治療不可能な遺伝子疾患を持った子どもを実際に産んだ後のあらゆる意味での苦悩を考えれば、誰であれ一概に中絶を否定することはできない」である。
上記の「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」及び「個々人がどのような意思決定=選択行為――いわゆる自己決定――を行おうとも、<私たち>はその個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」は、「誰であれ一概に(…)を否定することはできない」と同じ象徴的枠組みのレベルを占めている。これら両者において表出されているのは、その都度の現実の記述行為の遂行過程が、この枠組みを充当する任意の価値内容あるいは価値尺度の記述領域(=A)を逸脱する非限定無限(判断)領域(=non A)において未知の<意味するもの>を生成するという事態をあらかじめ排除することを目指す<私たち>/《我々=人間》の欲望である。
すなわち、この欲望は、上記の枠組みがどのような「途方も無い」価値観であっても包括する象徴的枠組みであることによって、むしろ既知の<意味されたもの>として与えられている価値の枠組み内部にあらゆる記述行為を回収し階層序列化することを狙っている。だが、この枠組み内部で活動する欲望は、任意の枠組みに亀裂を穿ちそれを空無化する「欲動」の生成フィールドである非限定無限(判断)領域への移行過程においてこの欲動に抵抗するという不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる。この<私たち>/《我々=人間》の欲望は、欲動の生成フィールドである非限定無限(判断)への移行――象徴的枠組みに支えられた欲望としての自壊-死――という事態を反復することになる。
既述のように、任意の現実の意思決定=選択行為の価値付け(階層序列化)という操作=記述行為は、それが空虚な記述行為の枠組みである限り、何らかの特定の価値の枠組み内部へとあらゆる現実の記述行為を回収することを狙う<私たち>/《我々=人間》の無意識の欲望にその根拠を持っている。言い換えれば、この操作=記述行為は、任意の記述行為と記述不可能な<現実=全体>との間の除去不可能な空隙を抹消するという不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる。この価値付け(階層序列化)という形式的操作=記述行為がそれ自身の正当化の根拠を持ち得ず、不可避的に自壊する(あるいはつねにすでに自壊している)のはこのためである。
3.<生体工学的介入>の意識化過程の分析論:メタ生命倫理学構築に向けて
 本章は、これまで遂行された分析作業をベースとして、個人=記述主体による<生体工学的介入>――あるいは任意の「テクノロジーによる介入」――の意識化過程の分析論を試みる。なお、その際、「意識化」とは、その都度の記述遂行過程の遂行主体としての個人=記述主体にとって事後的に見出されるものとして、何らかの<記述行為=言説実践>において記述可能な形での対象化が生成しているという事態を含意するものとする。本論では、この定義を前提とした上で、分析対象となるミニマムレベルの<記述行為=言説実践>の事例を以下のように提示する。
事例:「(何らかの<生体工学的介入>を経て)これから(type1)生まれてくるのは、(type2)作り出されるのは、人間だと思うが、そればかりではないのではとも思う」[注10]
まず、この<記述行為=言説実践>の事例においては、「A (これから生まれてくる・作り出される何か) = X (人間)」と判断し得る可能性と「A=<non-X> (《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》)」という判断とが並置されている。言い換えれば、この記述においては、「A=X」という肯定判断と「A=<non-X>」という無限判断とが並置されている。
ここでのポイントは、この「A=X」と「A=<non-X>」の「並置」という事態は、「必ずしも個人=記述主体にとって意識化されない様態」という事態に対応するということである。言い換えれば、この「A=X」と「A=<non-X>」の「並置」という事態は、それ自体としては記述へともたらされ得る――あるいは記述へともたらされた――様態で対象化され得ない。すなわち、「A = X」という肯定判断において「A=<non-X>」という無限判断の介入を排除することができない<生体工学的介入>の産物は、必ずしも意識化され得ない《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》に留まる。
さらに、ある個人=記述主体が何らかの記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程それ自身は、リアルタイムで(同時並行的に)その個人=記述主体によっては意識化されない。すなわち、個人=記述主体による記述行為の遂行過程それ自身のリアルタイムでの記述は端的に不可能である。[注11] 言い換えれば、個人=記述主体によるその都度の記述行為の遂行過程と、その個人=記述主体によるその記述行為の意識化過程との間には、除去不可能な空隙が存在する。
他方、この個人=記述主体が上記の無意識の過程を――リアルタイムでの端的に不可能な形ではないが――意識化していく過程を想定することができる。すなわち、ある個人=記述主体が何らかの記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程を、この個人=記述主体にとっての意識化過程として捉えることができる。
ところで、ある認識へといたる意識化の過程が、ある別の認識へと向かう無意識の変容・分岐の過程を生成する場合、この変容・分岐の過程は、ある認識の無意識の生成過程であり、同時にその意識化の過程であり、さらに他の認識へと変容・分岐していく無意識の創発過程でもある。
私たちは、個々人がある認識へといたる意識的かつ無意識的な過程が、ある別の認識へと向かう意識的かつ無意識的な過程へと変容し分岐していくという事態の<全体>を、何らかの因果的関係のもとで記述する力を持っていない。この事態は、<規則のシステム>が<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする限り、不可避的に自壊する他ない(あるいはつねにすでに自壊している)という事態に対応する。
この複数の認識の分岐プロセスという事態は、「A=X」という肯定判断と「A=<non-X>」という無限判断の並置という事態と密接な関係にある。すなわち、この分岐プロセスは、X以外の非限定無限(判断)領域への移行過程であり、その過程における新たな認識の生成途上にある事態として、それ自体としては意識化(記述可能な形での対象化)され得ない。
従って、もし何らかの生体工学的介入の過程で《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》が生成しつつあったとしても、その<何か>の生成過程は事後的にしか記述できない。
私たちは、ある認識の生成過程と、ある別の認識の生成過程とは、何らかの一貫性を持った創発過程として互いに関係づけられていると――何らかの記述行為=言説実践において記述可能な形での対象化が生成しているという事態を経て――事後的に記述することはできる。
言い換えれば、ある認識の生成が他の認識の生成の契機となるという(その都度の生成に対して事後的にしか記述し得ない)事態は、任意の個人にとって予測不可能な偶発的出来事である。私たちは、この文脈生成過程という出来事自体――<リアルなもの:The Real>――を、何らかの認識という様態で意識化することはできない。だが、この文脈生成という出来事は、この私にとって<リアルなもの>として事後的に意識化(記述可能な形での対象化)されることになる。
3―[2].<非-全体>としての理念
これまで遂行されてきた<生体工学的介入>の分析論を前提として、「メタ生命倫理学」を導く<理念>を、次のように規定することができる。すなわち、<理念>とは、<私たち>/《我々=人間》の何らかの認識が、任意の(可能的には無際限の)個人=記述主体の記述として生成し得る場すなわち文脈生成過程の――それ自体として<全体>化不可能な――仮想的総体である。従って、このように仮想された「<理念>それ自体」というレベルが、<私たち>/《我々=人間》の欲望が位置する<我々自身の無意識>というその都度の文脈生成を媒介するレベル及びその文脈生成過程に先立ってどこかに存在しているわけではない。さらに、この<我々自身の無意識>と文脈生成過程もまた、その都度産出される記述に関して遂行される分析作業から離れて、あらかじめどこかに存在しているわけではない。
このような<理念>を、私たちは<非-全体>としての理念と呼ぶことができる。言い換えれば、この<理念>は、<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする、あるいは記述し得ていると僭称するあらゆる<規則のシステム>を不可避的な自壊へと導くものである。
すなわち、このメタ生命倫理学の<理念>は、<生体工学的介入>を貫く<私たち>/《我々=人間》の欲望が不可避的に自壊し、「欲動」の非限定無限(判断)領域としての<非-人間の身体>領域へと移行する人類の決定的な存在論的分岐点を指し示している。
[注]
[注1]本論文は、拙論
をさらに掘り下げたものである。
[注2]ここで「生殖細胞系列」とは、有性生殖のための配偶子すなわち卵子、卵細胞、精子、精細胞、無性生殖のための胞子、またそれらの元となる細胞としての生殖細胞の総称という意味を持つ。なお、<生体政治的効果>への着目により、上記<生体工学的介入>という事態を同時に<生体政治工学的介入>として読み替えることが可能である。この場合、<生体工学的介入>という事態は、その都度の多様な<生体政治>(Bio-politics)の文脈生成過程においてこの<生体政治>と不可分な生成的様態にあるものとして分析される。言い換えれば、<生体工学的介入>は、つねにすでに<生体政治工学的介入>という事態としてその都度固有な文脈生成過程において生成する。
[注3]
[注4]
[注5]「A=<non-X>」は、X以外の非限定領域を肯定する無限判断であり、「A= non(not) X」という与えられた限定領域内部における否定判断とは異なる。
[注6]
[注7]「暴力批判論」(『暴力批判論 他十篇』 ヴァルター ベンヤミン著 野村修訳 岩波書店 1994年に所収)参照。
[注8] ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリの『ミル・プラトー』7章「零年―顔性」(邦訳『千のプラトー』 河出書房新社 1994年 原書 Mille Plateaux,Gilles Deleuze, Felix Guattari Editions de Minuit.1980.)参照。
[注9] ここでの<私たち>は、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の記述主体を、事後的に抽象的対象として捉えたものである。この意味で記述された任意の個人は、さらに抽象化されたレベルで、記述行為一般の空虚な主体の位置を占めるものとしての<私たち>/《我々=人間》という対象として記述される。
[注10]ここで提示された事例は、筆者が2005年上旬に民間株式会社である指定居宅サービス・指定居宅介護支援事業者に所属する職員(ケアマネジャー)を対象に行ったアンケート調査の対象者による回答(応答文)の一部「医学の進歩は喜びや希望もあるが、そればかりではないのではとも思う」を変換したものである。
[注11]上記の事態は、カントによって定式化された超越論的統覚の総合的統一の超越論性/根源性――超越論的統覚の総合的統一という働き(Aktus)=過程は任意の認識/記述主体にとってそれ以上遡行不可能な位置を占める――という事態に相当する。

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